これを書いている私は22歳。
大好きな両親の元に生まれてから、この日まで、今思えばあっという間だったかもしれない。
今日は、今までの人生の軌跡を少し振り返ってみようと思う。
私は、2003年の6月4日に、この世に生を受けた。
そこから保育園に通い、地元の小学校へ入学した。
保育園の頃の記憶は、幼いためか、ほとんどない。
ただ、母からよく聞いていたのは、幼少期の私はあまり泣かず、育てるのにあまり苦労しなかったらしい。
そのせいか、今の私はとても涙もろい。
小学校の頃の私は、とても旺盛だった記憶がある。
運動神経もよく、スポーツも得意で、足も速く、異性からは結構モテていた記憶はある。
おまけにサッカーもやっていたから、いわゆる好青年な印象はあったと思う。
懐かしいな。
中学校の思い出は、あまりない。
部活は卓球を始めて、一応エース的なポジションを任されていた。
今思い返せば、意外と自分は真面目というか、
部活以外の時間でも、結構自主練をしていた。
そのおかげで、卓球の技術も磨かれ、県大会にも出場するという、中学校から始めたにしては良い成績を残せたと思う。
でも、中学校の思い出はこれくらいしかないかもしれない(笑)
そのかわり、高校時代には、とても思い出があるんだ。
まず、自分は塾には行かず、スタディサプリという動画講座みたいなもので受験勉強をしていた。
周りの友人のほとんどは塾に通いながら受験に挑んでいたから、
一人で自学自習をして、進学校に入ったのは今思えばすごいことだと思う。
だから、合格発表の時、自分の受験番号があったときは本当に嬉しかった。
そして何より、母さんや父さんが喜んでいた顔は今でも忘れられない。
そして高校生活が始まってすぐ、私には好きな人ができた。
その子は小柄で髪がサラサラで、雰囲気も落ち着いていて、私はすぐにピンと来たんだ。
でも、その子は少し不登校気味で、たまに学校に来てくれたときはとても嬉しかった記憶がある。
(今の私なら気持ちが少しわかるけど、その子もその子なりにいろいろ自分の中で葛藤があったのだろう。)
それでも私は、うぶながら勇気を振り絞って、自分なりにアタックしていた。
結果的に付き合うことは叶わなかったけど、それでもとても刺激的で良い夢を見させてもらった。
今思えば、高校時代はそんな恋愛もどきみたいなことをたくさんやっていたな。
異性と接することが、こんなにも刺激的で充実感をもたらしてくれるのかとその時に感じた。
そんな青春めいたことを、高校生になってはじめて体験したから、思いれがあるのかもしれない。
それと同時に、私は「進学」という道に、どうも意味を見出せず、勉強に対するモチベーションも下がっていた。
かといって、就職して会社で働くという道にも、同意できなかった。
そして私は、高校を卒業後、進学も就職もせず、昔から興味を持っていた「ブログ」という道に進んだのだ。
今考えれば、私の人生は、あそこから変わったのかもしれない。
私は、昔から「自由」を追い求めていた。
それは具体的に言えば、金銭的自由と時間的自由だ。
多分、進学をしても、就職をしても、私の追い求める「自由」は手にできないとわかっていたから、進まなかったのだろう。
だが、学校とコンビニバイトという狭い世界、浅い経験、おまけに自信家だった私には、
「自営業」という世界がどれほど大変な世界かをわかっていなかったのだ。
そして私は、高校を卒業してから3年の月日を経て、1円も稼げることなく「ブログで稼ぐ」という道を断った。
正直に言おう。
私のメンタル、そして自信は、あのときからズタズタだったのかもしれない。
毎日、家に引きこもり、書きたくもない記事ネタを考え、文章を書き、おまけに1円も稼げない。
そんな生活が3年も続き、あの頃は気付かなかったけど、間違いなく辛かったと思う。
自営業は収入は青天井だが、稼げなければ収入源がないわけで、精神的にとても負担がかかるし、自信も失う。
それで私は、成人式にも顔を出さなかった。
あの時は、行くのが面倒くさいだけと強がっていたけど、多分内心は自分に自信がなくて、知り合いに会うのが恥ずかしかったのだと思う。
そこから、人と会うのが少しずつ嫌になっていった気がする。
かろうじて、あの時はコンビニバイトは続けていたから、そこで人との繋がりや社会との繋がり、仕事を終えた後の充実感が、気を正気に保つ良いスパイスになっていた。
おまけに家族もいたから、心の支えにもなっていたな。
だが、そんな結果の出ない3年の月日を経て、私はとうとう「稼ぐための記事づくり」を送る生活に嫌気がさした。
そして、心機一転させるために、「リゾートバイト」に行くことにしたのだ。
リゾバという生き方を知ったあの夜は今でも鮮明に覚えている。
当時、私は鬼滅の刃にハマっていた。
鬼を退治するために、主人公がいろんな場所に出かけて、いろんな人と出会い、いろんなドラマを経験し成長していく姿に、私は魅了されていた。
いつしか「自分もこんな人生が送りたい」そう思うようになっていたよ。
そして、神からの贈り物か、引き寄せの法則か、そのタイミングで私はリゾバに出会ったんだ。
「いろんな場所に出かけ、いろんな人に出会い、いろんな経験をし、自分を成長させていく。」
後に私は、これこそが人生を充実させ、楽しくするためのカギなのかもしれないと気が付いた。
お金(結果)を追い求める人生よりも。
そして、2024年3月、2024年7月、私はそれぞれ「千葉」と「長野」の二つのリゾートバイトを経験した。
今思い返せば、あれはとてもとても良い経験だった。
それぞれ3ヶ月働き、文字通り、いろんな人と出会い、いろんな体験をし、とても成長した気がする。
気の合う友人を見つけ、海鮮丼にうな重、ほうとうにラーメン、手料理なんかも食べさせてもらったなあ。
仕事の愚痴を言い合い励まし合い、毎日一緒に食事や風呂に入り、頑張っていた。
可愛い女の子と話したり、電話したり、青春めいたことも楽しんでいた気がする。
ああ、ベトナム人やフィリピン人の人たちにもとても世話になった、ありがとう。
振り返れば、あそこに俺の求める幸せの「本質(幹)」があったのかもしれない。
でも、そんな幸せに当時の私は、気付けなかった。
学生時代の楽しさを大人になってから気付くように、当時の私はその幸せのありがたみに気付けていなかった。
あのときの私は、まだ金銭的自由と時間的自由を諦めていなかったんだ。
それどころか、私は「早く自分で稼げるようになってこんなリゾバなんかやめてやる」そう思っていた。
そして、リゾバの隙間時間を使って、離れていたブログを再び始めたり、仮想通貨や仮想世界に出会い、そこでの可能性に賭けようとしていた。
だが、今となっては、そのどれも離れている。
唯一これからも、兼業として続けようと思うのは「トレード(FX)」だ。
トレードは、本当に可能性と夢に溢れているし、誤った道に進まなければ、間違いなく人生をより豊かにしてくれる。
私は結局のところ、金銭的自由と時間的自由を捨てることはおそらくはないと思う。
きっと、この欲求は人間なら誰しもが抱えるものではないだろうか。
問題は幸せの幹を疎かにし、枝葉を追いかけることがよくなかったのだと今の私は感じる。
結局、お金にしても健康にしても、見た目にしても、
それを追い求めること自体は悪いことではない。
だが、人生はきっと、それ以上に大切な何かがある気がするんだ。
22歳の若造には、そのなんたるかをまだ明確に理解できないけれど、
きっと本当に人生で大切なものは、お金でも健康でも食事でも見た目でもないことは確かなんだ。
出会い、思いやり、繋がり、笑い、経験、挑戦、成長、刺激。
リゾバという生き方の中には、人生の大切な何かがある気がする。
人生の本当の幸せの本質、幹の部分が。
それができてはじめて、枝葉の部分を追いかけるべきで、
つまり、FXやらブログやらを兼業で「金銭的自由」や「時間的自由」や「物質的な幸福」を満たすべきな気がするんだ。
だいぶ今私が私に伝えたかったことを話してしまったけれど、
ここに辿り着くまでにずいぶん苦労した(笑)
もちろん、リゾバをしていた当時の私はこの考え方ではなかった。
まだ「結果」を追い求めるプライド高き少年だったんだ。
2024年11月、リゾバを終えて家に帰ってきてからは、今度は毎日「FX」三昧だった。
「今度こそ、俺はFXで自立してみせるんだ。そしてポルシェを買うんだ。」ってね。
同時に、その頃の私は食事に対してとても神経質になっていた。
それは、高校時代から悩んでいた肌荒れが、リゾバ中に食事に気を遣い始めてから綺麗になったからだ。
でも、本当のところ、食事のおかげだったかどうかはわからない。
もしかしたら、環境が変わったことで「心が変わり」、身体が変わっただけかもしれない。
(これは後に書きたいテーマでもあるけど、「心」が与える身体への影響はとても大きいから。)
だが、当時の私は食事を妄信し、糖質制限に断食、蕎麦生活にサツマイモ生活、フルーツ生活に玄米菜食、ヴィーガンなど、健康と信じられている食事を一通り試したよ。
そして、2025年の初め、悲劇は起こった。
私はパニック発作を起こしたんだ。
ある日突然不安や恐怖がこみ上げてきて、息苦しくなり、寒くなり、手が震えだし、意識が朦朧としたんだ。
はじめての明らかな身体の異常に、両親に救急車を呼んでもらおうとするレベルだった。
今思い返せば、あのときはいろんなことが重なっていたのかもしれない。
FXで結果が出ず、また将来に対する不安や自信を失い、おまけに極端な食事制限による栄養不足やストレス、そして悪天候。
今まで押し込んでいた思いが溢れ出し、ああなったのかもしれない。
だが、あのときは本当に母に助けられた。
母も精神的な疾患を抱えていたから、母は私の姿を見てすぐに適切な対処をしてくれたし、安心させてくれた。
今でも救われることは多い、本当にありがとう。
でも、当時の私はそれがパニック発作だとは知らず、ましてや自分が精神的な疾患になるとは到底受け入れられず、
何かのアレルギーによる発作だとか、血糖値の異常のせいだとか、ストーブのガスのせいだとか、癌なんじゃないかとか。
いろいろ勝手な思い込みをしていたな。
明らかな身体の異変に、病院にも行っていろいろ調べたが、私は健康そのものだった。
そこではじめて、私の身体の異常が精神的なものから起因することを知った。
あのときは、いろいろなことを考えすぎて不安になり、悩み、もうどうすればいいかもわからず、涙がこみ上げ、
鬱病になり、引きこもりにもなっていたな。
そんな時期2025年1月から6月の約半年間続き、あのときは本当に本当に辛かった。
体重も48kgになり、ただでさえ瘦せていたのにさらにガリガリになって困ったよ(笑)
母さんにも、父さんにも、妹にも、迷惑と心配をかけてしまい、同時に救われた。
ごめんなさい、そしてありがとう。
私が少しずつ回復をしていったのは、6月の中旬頃からだ。
鬱期を経験をし、私の中で何かが大きく変わったんだ。
ありのままの自分を受け入れ、結果を追い求めることをやめ、人生の大切なことに気が付いた。
何より、すべては「心の持ちよう」だという人生最大の気付きにも出逢えた。
そして、挑戦し、自分を成長させることに喜びを感じるようになった。
外にも勇気を出して出るようにもなったし、友達と会えるようにもなり、大好きな釣りにも行けるようになり、
車も一人で運転できるようになったり、バイトも始められるくらいに成長した。
そして今度は、またリゾートバイトに出かけようと思う。
「いろんな場所に出かけ、いろんな人に出会い、いろんな挑戦をし、経験をし、自分を成長させていく。」
やっぱりこの想い、ずっとやりたかった生き方は、これまでいろいろ経験してきてもなお今も変わらない。
そして、自由を追い求めることも諦めたわけじゃない。
でも、今度は森を見て、その次に木を見て生きてみようと思う。
もちろん、まだまだ不安はあるし、迷いもあるよ。
それでも、今できることをやってみようと思う。
これがどこに辿り着くかは全然わからないけれど、そんなことは重要じゃない。
今の自分にできる精一杯のことをやることが大切なんだ。
今の私は22歳、これからどんなドラマがあるのか、そして自分がどう成長していくのか。
それをこのブログに残していこうと思う。
ずいぶん長くなってしまった、もう朝日が昇りつつある。
おやすみなさい。